職人とは、寡黙で気難しくて怒りっぽい。
口答えすると、何も教えてもらえなくなる。
黙々と作業をし、師が口にする言葉を一言も漏らさないよう緊張感を持って学ぶ。
はっきりと主従関係がある徒弟制度のなか、盗み見しながら技術を向上させていく。
職人という言葉から、そんな風に思っている方が多いようです。
私、思うのですが。
怒りっぽい人であれば、主従の「従」となる弟子だけが言うこと聞いているだけになるでしょう。
教え子は、顔色見て話すようになるはず。
そういう世界が成り立つのは、給料をもらって勤めている。
または、無料で習っている場合に限ります。
お金を払って、必要以上の緊張感、怒鳴られるなんておかしいと思っています。
そういうことはしません。
伝える仕事をしてきたので、心がけています。
学ぶ環境にストレスが生まれるのは望ましくありません。
教室は、教えるために存在していて、習うために通っているわけです。
無知であるから習うのであって、無知を責めるような態度は不適です。
お客様だって、一見さんばかりになるでしょう。
そんなことしたら、学ぶことも、物作りも辞めたくなるでしょう。
お金払うまで優しくて、払ったら怒鳴られて、いびられて。
辞めたら手間減っていいばっかり・・・。
そういうことはしません。
伝える仕事をしてきたので、心がけています。
不要な緊張感を持たずに学ぶことは、「質問しやすいし、聞きたいときに聞ける」と思えること。
緊張感を持って作業する場面はあるけれど、教える人が緊張感を強いることは不要だと思っています。
高圧的な態度で、主従関係を作るのは「教える職業」として卑怯です。
私の先生は、「何でも聞きなさい。何回でも聞きなさい。」と言いました。
私も同じように生徒さんへ伝えています。
高圧的な態度など受けたことがありません。
私の生徒さんも、私を高圧的だと言わないと思います。
主従関係というのも、意識させる必要もないのです。
圧倒的な技術力差を見たら、誰だって「この人 すごいな」と思うはずだから。
学んでいる頃そう感じました。
私の先生のように、困ったときに頼られる人柄でいたいですし、技術で伝えたいし見せたい。
だから、技術のない者なら、怒ってごまかすしかなくなる気がします。
靴作りにおいて、最初に思ったのは「これまでの経験が活きなさすぎる」こと。
用語、作業内容、説明、すべてが分からない。無知から始まる。
教えると言うことは、全くの無知へ伝えることになるので、教えたことが全てが正しいと思われてしまいやすい。
教える者、伝える者とは、聞く側が 知らないことを 分かったうえで 応対できること。
そのことを説明する仕事をしてきて学びました。
無知を利用した汚い応対を続ければ、必ずその者の心根が露呈すると思っています。
靴作りを学ぶなか。
どんなことも望ましいのか否かは、先生が基準となります。
そのとき、美しさが無いような気がする。
雑な気がする。
自分は成長しているのだろうか。。。
そんなことが起きるかもしれません。
そう思うと、第三者評価しかないと思ったことも技術認定試験を受けた理由です。
その技術が望ましいか否かは、始める側には分からないのだから、第一線の技術者に審査された結果しかないと思ったのです。
教えると言うことは、その人の進む道に何かしら影響を与えます。
作れるようになったならば、その後のお客様にまで影響します。
だから、きちんと靴を伝えなくてはならないと思っています。
以上を心がけて伝えています。